鎮火祭についてのインタビュー

提供:かがが

鎮火祭について
インタビュー
資料情報
所有者 映像ワークショップ
保管場所 映像ワークショップ
メディアタイプ 不明
制作年 2020年3月13日
制作者 映像ワークショップ
撮影/制作地 大土町二枚田昇
関連する地域 大土町
再生時間 17分00秒
備考 話し手:二枚田昇
聞き手:映像ワークショップ

質問内容

  • 1938年/昭和13年5月22日に発生した大土町の大火事について
  • またその火事の記憶を継承する目的で毎年5月中旬に催される「鎮火祭」について

書き起こし

映像ワークショップ)
鎮火祭というか、火事の資料ってなんかありますか?

二枚田昇さん)
え?火事の資料?
火事の資料って言われても。

映)
その時の話とか。

二)
その辺(アルバム)に入ってなかった?
新聞記事があるはずやね。
なにしろ80年ほど前の話やから、ちゃんとしたものが残ってなくて。
その当時のあの、燃えたあとの写真くらいしか、私も見たことはないけど。
焼け野原になってて、それがこのアルバムにあったかどうかわからないけども。

映)
80年前ってことは1940年くらいですか?

二)
1938年です。
1938年5月22日。
一番、ここら辺が乾燥してるとき。

映)
囲炉裏が原因ですか?

二)
いや、囲炉裏じゃないです。
その当時はね、瓦屋根じゃなくて、茅葺き屋根。
だけど合掌造りじゃなくて、すすきの茅でおおってある家。
で、大土町の入り口のところにほら、小さいお墓が4つあったでしょう。
あの場所にあった家の子供が、昼間の11時~12時ぐらいの時間に、家の中でマッチ擦って、窓からマッチをポィッと外へ投げ捨てたらば、そこに雪囲いのための茅が、全部敷き詰めてあった。
5月の20日前後は一番乾燥しているときだから、簡単にボッと燃えちゃって。
そしたらここは、丸い村なので、熱の対流現象が起こって、時計と反対回りで。その当時は22軒、家があった。
今の10軒の倍あったんですよ。
それが順番に燃えて壊れていった。
村に蔵が2軒残っているでしょう?
ああいう土蔵が6軒かな、あったのが、今は2軒だけ残っている。
あの2軒だけは燃え残りなの。
で、5月の春先の一番忙しいときの昼間のど真ん中だから、その当時うちの父親が、昨年98歳で亡くなった親父が17歳くらいで、ずーっと山奥で、炭焼き窯を作るために、新しい佂を作るためにみんなそんな感じで、全部男衆は山へ入っていた。
そんなんで火火事があった。
だから実際に、大事なものすら捨てて、仏様の大事なところだけを持って、火の来ないところへ逃げた。
女、子供、年寄りしかいなかったんで。
力のあるような人間は全員、山へ入ってた。
うちの親父なんかもすごい山奥で、村から一生懸命知らせに回ってくれたらしいんだけど、遠いところの山でおっきな声で叫んでるんで、何を言うてるのかわからなかったって言ってましたね。
夕方、戻ってきたら、村がサーっと無くなってたって。
で、うちの親父は、たまたまその前の年まで焼いてた炭を、この村の外の向こう側で焼いてたやつを、普通だったらそのまま炭焼き窯に置いておくんだけど、違う所に作ることになったからってことで、全部家に持ってきてあったらしい。
それで炭が全部、灰になってたって。
それが、1938年の5月の火事。
だからその、いま残ってる10軒の家は、1938年から1年か2年の間に建てられたもの。
二人の大工さんで建てたって聞いてる。
よくこれだけのもの(部材)をそろえた。
全部、うるし塗りですよ、これ。
自分らがちょっと不思議なのは、いま残ってる10軒の家が全部おんなじ作りで、全部うるし塗りなんですよ。
あわてて作ったはずなのに、全部そういう感じでね、丁寧に作るっていうのがちょっと不思議なんです。
そんなにお金があったはずはないんだけどね。

映)
うるしを塗ると防火になるとか?

二)
いや~、そんなこと聞いたことないんで。
そんなに見栄をはるほどお金あったのかなって。
ふふふ(笑)あとで違うお家も入って見られればいいけど、ほんまに作りは一緒。
あの、要するにこういうとこの家っていうのは、玄関から入って囲炉裏がこっち側(左側)にあると、反対側の奥が仏壇を置く仏間。
逆に囲炉裏があっち側(右側)なら、こっち(反対側の奥)が仏間。
で、その隣が、私らのプライベートな部屋。
作りとしては左右の違いだけ、あとはなんもかわらない。

二)
これビデオ(大土町アーカイブムービー001)。
もしあれやったら中に何が入っとる言うてください。
自分で撮ったけど、まったく何が入っとるかわからん(笑)。

映)
これ、何年のなんですか?

二)
わからん。ハンディカム持ってたときって、30歳前までやね。
スキーに行ったりして、それ持ってって。
だんだんあのー、カメラがちっちゃくなってきたんで、スキー場行ったりして撮ってたり。
ほんっと地元でなんて撮ることなかった。
テープがもったいないと思ってたから(笑)。

映)
確かに今みたいにボタン一つで無限に撮れるわけじゃないですもんね。

二)
そうそう。ほんっとにそう。

映)
ビデオテープって、撮り直しというか、データの削除みたいなのって出来るんですか?

二)
上からかぶせれば、撮り直しはできるけどね。
でも、そういう撮り方はしたことないねえ。
ずーっとソニーのハンディカムばっかり使ってました。
あの弁当箱って呼ばれてたちっちゃいやつ。
大事にいまも持っておけばよかったんやけど。
これくらいのでっかいカメラ(肩に乗せるようなサイズのもの)から使いはじめて。

映)
そんなでっかいの持ってたんですか?

二)
そうそう。
あれでもちっちゃくなったんに。
それがハンディカムになって一気にちっちゃくなって、うわーって。
いまじゃあね、スマホなんて、こんな便利なもので撮ってる、あはは(笑)こんな楽なもんがあるなら。

映)
いや、ほんとに。

二)
うわ、すごい。
台湾に住んでる子(大土に農作業ボランティアで滞在してた)から、北陸で地震があったらしいけど、大丈夫?ってメッセージが来てる。
生きてますって送っとかな、あはは(笑)
大土町でおっきな災害があったといえば、やっぱ1938年の火事やわね。
ここは、地震とかっていうのは、ほんとに被害のないところで。
70年くらい前の福井地震(1948年、M7.1、震度6)といってもね、神社とか少し壊れて、道が割れた、っていうのは聞いとるけど、その程度だった。
ま、一つビックリしたのは、あそこの湧き水、あれが1週間、濁ってたって。
だから、地下のふかーいところで動いて、つながっとるような。
で、13年前の輪島の地震(能登半島地震、M6.9、震度7)の時も、その話を聞いてたんで、朝の10時くらいに湧き水のところへ行って見たらば、半日間濁ってた。
ほんっとに真っ白やった。
親に福井地震の時のこと聞いてたんで、もしかして、と思って行って見たら本当に真っ白やった。
だって150kmくらい離れてるでしょう、こっから輪島といったら。
そんな影響あるんやね。あとはもう、毎年雪が降るくらい。
昭和38年の日本全国で豪雪だったときは、ここは4mなんぼくらい雪があって、そこらへんの電線をまたいであるいとった。
だから、家に入るときは、2階の窓から入って、階段を降りてくるじゃんね。
写真もあるやろと思うけど、3月くらいでもう下屋根が埋まって、2階部分だけ出とった。

映)
逆にあったかいのかもしれない。

二)
そう、風が入って来んからね。

映)
火事の時は、死者はいなかった?

二)
えっとねえ、3人。
ちょっとあの、障害のある子供さんを、この辺じゃあ、あの、あんまりいいことじゃないんだけど、お宮さんの下にあった土蔵、蔵の中に入れておいて、で、火事だから、危ないから逃げろって、戸を開けて、その子たちが外へ出てきて、火を見た途端に怖くなってまた中へ戻って入ってしまった。
それで、焼け死んでしまった。

映)
そんなことが。
それにしても、こんなに山の上で、地震はあんまり影響ないんですね。

二)
うん、ない。
夏に台風なんかが日本に来た時に、「大丈夫?」「大丈夫?」って東京から電話かかってくるんだけど、ほんっとになんもない。
風が吹いて、雨が降るんだけど、大土って地面が岩盤のせいかね、大雨でもダーっとね、上から下へ、そのまんま全部落ちてってしまう。
そこらへんに溜まって、地面が緩むとかって、そんなのがないんだね。
次の日になると、水が通った跡だけ残ってる。
やっぱり山奥だから、どっか崩れたんじゃないの?ってよく聞かれるんだけど。
それプラス、これ私だけの考えですけど、台風って時計と反対回りでしょ。
輪島から、この、能登半島とこう位置関係がなっとるでしょ。
台風が西から入ってくると、白山と立山が邪魔して、あんまり大した影響がないんじゃないかなと。

映)
白山信仰ですね。

二)
そうですね。
昨年だったか一昨年だったか、ほんとに間近なルートで、今回ばかしはいよいよキツイやろと思ってたらば、夜の8時くらいにこもって見とったら、ガーッと来てビューっとなって、おしまいって感じやった。
え、こんで終わった?っつう感じで。
昨年の台風19号なんてね、東北でね、せっかく再建した電車がまた壊れるくらいにめちゃくちゃだって。
不思議なことに大土は、あ!!これこれこれ(写真アルバムを見て)。昭和38年。
これが私かな。
いや、これかな。

映)
あ、これが大雪のときですね。

二)
雪面から出てるのが、そこにある電柱。
半分くらい埋まってる。
それでも3月くらいなんだよ、たぶん。

映)
2年前の大雪(2018年)のとき、飯貝さん(大聖寺在住)がそこでスノボしてましたね。

二)
あはは(笑)。
あの人はうまいわ、すごいわ。

映)
動画見たことあります。
本当にスキー場だ、って思いました。
(アルバム)この人は誰ですか?

二)
私の父親です。
満州行ってて。
夏で股引はいとるような親父で。
昨年の6月に98歳で亡くなりました。
1日一箱タバコを吸うような人で、レントゲン撮ったらこっちの肺が真っ白になってて。
それでも80歳くらいまで吸い続けて。
だから(吸ってても)98まで生きれるんですよ。

映)
(アルバム)こちらの人は誰ですか?

二)
その写真の真ん中の人は、学校の先生です。
つじまさのぶ先生というて、あの、加賀市の西島、業務スーパーがあるとこの8号線越えたあたり、あそこの集落の人で、私が小学校3年生、4年生とお世話になった。
もう一生忘れられない、大変大好きな先生。
その前の年までは、ずいぶん年寄りな先生で、吸坂(すいさか)って大聖寺行くところの途中にある、あそこから来た年寄り先生だったんだけど、この先生は、それから後は全部そうなんですけど、大学出てすぐ、新任の先生が2年間ここにくるんですよ。
その制度になって最初のときの人でね。
めっちゃくちゃかっこよくて。
すごかった。
その後、もう62歳くらいで、校長先生になられてから、体調悪くして亡くなられてしまった。
私らが、小学5年生になったときに下の本校(山中町立荒谷小学校、山中温泉荒谷町)へいったら奥さんも先生になってこっち来られて、いろんな行事の中で、夫婦になられた。
一説には、大土の子供会で、肝だめしかなんかやった時に、先生が二人、昔の墓場に行って、そこで、仲良くなられたんじゃないかと(笑)。
後から聞いた話なんですけど。
私、二人とも憧れの先生だったので、あ、夫婦になられたって。
今でも、奥さん(先生)から年賀状来ますよ。

映)
じゃあ、まだ元気なんですね。

二)
もちろん、もちろん。
え!行くの?

映)
行きたいです。
お会いしたいんですけど。

二)
うっそー。

映)
今おいくつくらいになられてますか。

二)
いくつだろう、私らが10歳のときに22, 23だから、で、私いま66歳だから、それに足したら(笑)。
いやー、でも連絡したことないな。
5月の祭り(鎮火祭)に一度来てもらったことがあるんですよ。
そのときはもう、旦那さん(先生)が亡くなってて、遺影を持ってきて頂いてね。
それ以来、なんだかんだとあって、お会いしてないんですけど、どうかな~?
どう言えばいいの(笑)

映)
変な男が調べて歩いとる、ということで。

二)
じゃあ、どうなるかわからんですが、連絡とってみます。